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2018.03.19

/ 松本大

僕の"言葉"の定義について。おおむかしに話したことがあるかもしれません。『pellucid』という曲について、ついでに話したことがある気がします。



僕の心から生まれた想いは、思考を通って文字や声にするときに言葉になって、その言葉はあなたの思考を通って、心に想いが届いているという個人的な定義です。



これは、僕の中で『プレゼントを箱に入れて送る感覚』にとても近いです。けれどこの世は摩訶不思議。僕が送ったプレゼントは、相手に届いたときには中身が変わってしまうのです。「歌詞のここがとても響きました!!」なんて言ってもらえることもあって、「へぇそんなのでも嬉しかったりするんだー」とか「そんな解釈もあるのかー」と思ったりしています。たまに全然届いてないときもあります。傷付けてしまうときもあります。「あけたら空っぽでした」なんてこともあります。それが愛おしかったり、歯痒かったり、驚いたり、痛かったり、日々とても忙しない。心が違うから仕方ないで済ませることもできるけど、そうすると会話する意味がなくなってしまいそうで、それはあんまり考えないようにしてます。



送り主と受取り主の関係性で届き方はまた変わってくると思います。僕のことを知っているから、理解しようとしてくれるから届く想いもあると思います。思いも寄らぬものが届いているときがあります。



わざと空っぽにしているときがあります。あるときは重ねてほしくて、あるときは楽しくて、あるときは叫びたくて、あるときは逃げたくて。



言葉に隠しているときもあります。自分の想いを独り占めしたかったり、怖かったり、また楽しかったり。



色々考えた結果、結局答えなんてものはないと思っています。届けたい想いと受け取った想いが違っても、間違いなんてことにはならない。



『pellucid』は、体や思考が邪魔だと思って書いていました。浮かんできた想いのまま届けばいいのにと思って書いていました。未だにそれは変わりません。本音はね。



結局なにが言いたいかというと言葉はとてつもなくめんどくさいということです。けど、こうしてまた想いを言葉に詰めるのは、「誰かと生きていたい」と心が言うからだと思います。



生きるのも孤独なのも伝わんないのも正直全部めんどくせぇと思う日もあれば、全部おもろいと思う日もある。とりあえず今は、箱に入れたプレゼントが摩訶不思議アドベンチャーを越えても変わらないまま届いたらどうなるんだろうという興味がある。最近そんな感じ。結局めんどくさい話になってしまいました。おやすみ。